杭州、西湖(1)
1921年3月、芥川は大阪毎日新聞社の海外視察員として中国を訪れた。
芥川は杭州に来ている。
「此処が日本領事館ですよ。」
村田君の声が聞こえた時、車は急に樹々の中から、なだらかに坂を下り出した。すると、見る見る我々の前へ、薄明るい水面が現れて来た。西湖! 私は実際この瞬間、如何にも西湖らしい心もちになった。茫々と煙った水の上には、雲の裂けた中空から、幅の狭い月光が流れている。その水を斜に横ぎったのは、蘇堤か白堤に違いない。堤の一箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛り上がっている。この美しい銀と黒とは、到底日本では見る事が出来ない。私は車の揺れる上に、思わず体をまっ直にした儘、いつまでも西湖を見入っていた。
芥川が来た当時、杭州に日本領事館があった。今は浙江省の何かの事務所として使われている。
この近くに断橋と白堤がある。
新新旅館へ辿り着いたのは、その後十分とたたない内だった。此処は新新と号するだけに、兎に角西洋風のホテルである。
芥川が宿泊した「新新旅館」。
このホテルは、西湖に面した場所にある。西湖は目の前だ。すぐ近くには孤山という小さな島がある。芥川もきっとここから西湖を眺めていた。とはいえ、芥川がこのホテルでとんでもないアメリカ人を見かけて不愉快な気分になっているのであったが。
宇佐美りん『推し、燃ゆ』
■宇佐美りん『推し、燃ゆ』河出書房新社、2020年9月
この小説について、天皇小説という言い方をしているのを見かけたが、いま一つどういうことなのか分からなかった。なので、『JR上野駅公園口』の原武史の解説は、この小説を理解するのに非常に役立った。
主人公の女の子は発達障害があり、周囲との関係も良くなく、生きづらさを感じている。そんな主人公は「上野真幸」というアイドルを好きになり追いかけ始める。ひたすら「推し」の情報を集め、「推し」を「解釈」するという生活。そんな主人公と「推し」の関係はこう語られている。
携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。(太字は引用者による)
もう一箇所引用してみる。
諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。推しの魂の躍動が愛おしかった。必死になって追いつこうとして踊っている、あたしの魂が愛おしかった。
こうしてみると、「推し」が光で、主人公はその影であるという関係が見えてくる。推しが輝けば輝くほど、主人公は自分の存在を感じられる。「推し」と一体化を望むわけではなく、「推し」との間に「一定のへだたり」を保つということも興味深い。一定の距離感を保たなければ、「推し」に「あたし」という存在が反映することができない。すなわち自分自身の存在を感じられなくなるのだ。
柳美里『JR上野駅公園口』
一人の男性を軸に、戦後の日本、東京、福島、天皇、ホームレス、震災、原発などさまざまな歴史が語られる。
天皇制の視点から原武史が解説を書いている。これがすごく分かりやすいので引用しておく。
主人公は出稼ぎ労働者で、人生の大半を故郷を離れて生活していた。結婚もしたが、妻や子どもたちと会うことも少なかった。そして60歳を過ぎ、ようやく故郷に戻り家族と生活をし始めるのだが、妻が突然亡くなってしまう。主人公は孫娘と一緒に生活するが、孫娘に迷惑を掛けられないと再び故郷を出て東京・上野へ向かう。そして主人公は上野でホームレスとなる。
主人公は上野公園で暮らす。解説によれば、上野公園は正しくは「上野恩賜公園」と呼ばれる。もともと皇室の御料地で、明治から大正にかけて国家的イベントが開かれ、天皇が行幸した。1923年、関東大震災が起きた際には罹災者を収容した場所でもある。関東大震災の翌年、宮内省から東京市へ下賜され恩賜公園となったという。
上野公園近くは博物館や日本学士院があり、天皇や皇族が訪れることが多い。そのため、小説中でも語られる「山狩り」と呼ばれる特別清掃、すなわちホームレスの排除が行われるのである。
このことについて、解説ではこう述べられている。
ホームレスになるのは、地域共同体から切り離された人々であった。しかも、上野公園に集まってくるのは東北出身者が多かった。彼らは行幸に先立ち、かつての精神病者などと同様、天皇の視線から強制的に遠ざけられた。それはまさに、明治以降に確立された天皇制の権力がいまなお消えていないことを示している。
興味深いのは、この後である。原武史は次のように述べている。
だが実際には、現天皇と現皇后を乗せた車が近づくと、公園から締め出された主人公もまた沿道の人々とともに手を振ってしまう。シゲちゃんは頭で考えるのに対して、主人公は身体が反応してしまうのだ。背景には、昭和天皇を原ノ町で奉迎したときの原体験がある。主人公の人生のなかで、あれほどの陶酔感を味わった瞬間は、それ以前はもちろん、以後にもなかったのではないか。その記憶がよみがえったのだ。天皇制の権力によって排除されているにもかかわらず、天皇制の呪縛から一生逃れることができない運命――主人公はいわば「影」であり、天皇という「光源」によってのみその存在が浮かび上がる。「鏡や硝子や写真に映る容姿を見て、自信を持ったことはなかった」という冒頭近くの一文は、この点で印象的である。(太字は引用者による)
天皇制の力というものが端的に示されている。この解説はなかなか分かりやすくて示唆的でもある。
村上春樹『騎士団長殺し』
理由は分からないが、妻に突然離婚したいと言われた「私」はそれを受け入れる。傷ついた「私」は車で東北地方を転々と旅をする。旅から戻ると、友人を頼り、友人の父親がかつて住んでいた家に住むことになる。そこで、ある絵画を見つけたことによって、「私」の周りで不思議な出来事がおきる…
この長編小説(上下巻、ともに500ページ余り)に出てくるモチーフも、これまでの村上春樹の小説に出てきたモチーフばかりである。物語のパターンもおなじみのものだと言えよう。夢、性的なこと、穴(地下)、父親、戦争、災害など。ファンタジーな物語の中に、歴史が挿入される。この小説では、1938年にドイツと中国で起きた歴史的事件に深く傷つけられた人物たちが現れる。心の傷を負った人たちが、その傷とどう向き合うのか。
「父親」という面から読めば、「私」と「免色」という人物は対照的に描かれることになる。「免色」という人物は、色が免れている、つまり色がないということから考えると、「多崎つくる」と結びつけて考えたくなる人物でもある。あるいは、「多崎つくる」が「私」と「免色」の源であると解釈するほうがよいのかもしれない。「多崎つくる」から派生した人物が「私」であり「免色」という人物と思える。『騎士団長殺し』では、「私」と「免色」を通じて、父であること、父になることは何なのかを語っていると思った。
平野啓一郎『マチネの終わりに』
■平野啓一郎『マチネの終わりに』文春文庫
6章での急激な転換に、ご都合主義的なストーリーを感じて興ざめしてしまう。そもそも主人公二人の設定自体が浮世離れしているのだが、それにも関わらず小難しい芸術論や社会批判(手垢の付いたリベラル思想)を語っていて、それも読んでいてうんざりしてくる。小説を書きたいのか、作者の知識を自慢したいのかわからない。
登場人物、特に主人公の二人に主体性というものを感じられない。結局、ずっと周囲に流されているだけなのだ。何か障害が起きたときに、それを解決するために自分たちが何かをしようとしただろうか。主体的であったのは脇役だけだろう。主人公たちは自分では何もできない。周囲の人間か、時の流れによってあいまいに解決していくだけだ。だから、本当に二人が愛し合っていたのかがわからない。ただ単に過去の思い出が美化されて、郷愁に浸っているだけなのではないかと思う。本当に二人が愛し合っていたとするならば、もっと他の人生がありえたし、それも特別難しいことではなかった。だが、それをさせまいとする作者の底意地の悪さをすごく感じる。その意地悪さは、物語上の必然性というよりも、単に作者が自分の考えた通りの展開にしたかったからだけなのだ。作者の設計図通りに登場人物が動いているとしか思えないストーリー展開。これは小説としては致命的だと思う。
杉田俊介『ジョジョ論』
小熊英二『日本社会のしくみ』
■小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社、2019年7月
雇用慣行について、比較および歴史社会学的な分析。日本の雇用の特徴といわれる年功序列の賃金、終身雇用がどのような経緯でもって成立したのか、多くの資料や参考文献を用いて明らかにしていく。
今、当たり前だと思っていた「しくみ」が、どのように成立したのかという歴史を振り返っていくと、この社会はもしかしたら別のありようもあったのだなと思わせられる。だが、この今の社会を選んだのは、私たちである。どの社会が良いとか悪いとか、誰が悪の元凶だとか、そんなことの答えを本書に求めてはならない。結局は、私たちはどのような社会を目指すのかを一人一人考えるだけだ。そのための土台になるのが本書である。
それにしても分厚い本だ。