若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』

■若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』河出書房新社、2017年11月
東北弁の語りが入り交じる文体に、最初は興味深いと感じた。標準語の語り手と東北弁で語る「桃子」、さまざまな語りが多声的に広がっていくのではないかと予感させたのだが、期待外れの展開へ収まってしまうのが非常に残念な作品。
形式で斬新さを見せようとしても、結局は内容が薄っぺらいと感じた。要は「私って何?」という古くさい、幼いテーマでしかない。物語では「桃子」は高齢者であるが、十代の若者という設定に変えても成り立ってしまう物語だ。この物語のどこが評価されたのか、甚だ疑問を感じる。

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

町口哲生『教養としての10年代アニメ』

◆町口哲生『教養としての10年代アニメ』ポプラ新書、2017年2月
とても退屈なアニメ評論。
アニメを「インフォテインメント(情報娯楽)」として捉え、教養(学問)で分析すると述べているが、アニメ作品そのものの理解にはほど遠い試み。学問的に見せたいという著者の努力は感じるが、大学4年生か出来の悪い修士の学生のレポートを読んでいるような内容であった。
アニメだのマンガをちょっと難しい哲学や社会学の用語で語りたくなる人は、昔からいたが、いまだにこんな人がいるんだなあと懐かしく思った。この内容の講義だとしたら、退屈な講義だろうなあ。
アニメを学問として研究するなら、このような小手先のテクニックを振り回すだけでは不十分。アニメ研究に必要な基本知識の入門書だったら、『新版 アニメーション学入門』(平凡社新書)のほうが要領よくまとまっているし、さまざまな専門分野の視点からのアニメ研究であれば、『マンガ・アニメで論文・レポートを書く』(ミネルヴァ書房)のほうが参考になる。

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』筑摩書房、2017年4月
物語論をベースとした一種の自己啓発書のような内容。物語論を、人間とは何なのかといった問題で利用するというのはなかなか新鮮な内容であった。物語論なんて、文学研究でしか使えないと思っていたので。

北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』

北田暁大栗原裕一郎後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』イースト新書、2017年6月
期待せずに読み始めたが、なかなか面白い内容の本だった。90年代後半から2000年代の論壇事情が理解できた。
批評にめっきり興味や関心を失っていたが、この本を読んだら、最近の批評をまた読みたくなってきた。最近の批評の悪いところがよく分かったからだ。いまさら、「批評はこうあるべきだ」のような興味や関心もないが、この本で述べられている問題点は自分で勉強してみたくなる。とりあえずは、何の勉強をするにせよ、経済の知識は必要だろう。

千葉雅也『勉強の哲学』

◆千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』文藝春秋、2017年4月
『勉強の哲学』は腑に落ちるところが多い。勉強について考えたことがある人は、「そう、そう」とうなずくことが書いてある。
勉強は確かに際限なく進めることができてしまう。でも、それが勉強の罠であって、勉強をたくさんしているのに、満足いく成果が出ない一つの原因でもあるだろう。そこで、必要なのがいったん止まることだ。しかし、著者も「決断主義」という言葉で注意を促しているが、「もう、いいや」と完全に勉強をストップさせてはいけないのだ。あくまでも中断であって、終わりではない。勉強には終わりはない。動きつつ止まる。止まりつつ動く。イメージ的にはこのようなことであろうか。
アイロニーやユーモアといった言葉で、ものの見方を多様化する。これ自体は、それほど珍しい指摘ではないのだが、本書の優れた点はやはり「有限化」について明確に論じたところだ。アイロニーが完璧を求めてしまうという指摘も非常に有益な論で、これなどは「論文が書けない病」の一つの原因だと思う。勉強熱心で、努力をしているのに目立った成果が出せない人は、「有限化」ができないからなのだろう。
アイロニーとユーモアで動きつつ、あるときに有限化する。勉強とはこれだなと深く同意した。
あと、最後の補論がとてもよい。本書の執筆の舞台裏をくわしく明かしている。
『勉強の哲学』を読んでいると、苅谷剛彦の『知的複眼思考法』を思い出した。両書とも面白い。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

横光利一『旅愁(下)』

横光利一旅愁(下)』講談社文芸文庫、1998年12月
長く異国で生活していると、次のような「矢代」の言葉はとても印象的に響く。

「君、僕はいま非常に気持ちが良いのだよ。われながら興奮を感じるほど混じりけがないように思うんだが、これがいつまでも続いてくれればね。君はどうだった?」と東野は急に矢代の眼の中を覗き込んで訊ねた。
「僕もそうだったなア。しかし、一度そういうことが有ったと思うことは、なかなかこれが、大切なんだと思ってるんです。今でも僕は国境を入ってきたときの感動を、これは自分の鍵だと思って大切にしていますよ。」
「そうだろうね。もしそれを疑っちゃ、――」東野は暫く黙った。
「しかし、その鍵を疑うものは実に多いね。そ奴を知性だと思わして元も子も無くさせる非文化的な病いが世界中に蔓延しているんだよ。何ものの仕業か知らないが、こ奴にかかっちゃ、今にもう僕らは戦争をさせられるよ。世界中がじくじく腐って来たのだ。」(p.307)

矢代の言う「自分の鍵」がたとえ幻想だったとしても、日本に帰るたびにしみじみと感じるものだ。それをナショナリズムと呼ぶのかもしれないが、人間というのは不思議と、「国境」を入ったときに感動し、かつ安心するものなんだろう。

大澤真幸『ナショナリズムの由来』

大澤真幸ナショナリズムの由来』講談社、2007年6月
800ページを超える大著で、持って読むのがとてもつらい本であった。しかも、つらいのは本の重さだけでなく、その内容もである。
本書は、はっきり言えば、著者の読書ノートあるいはお勉強ノートといったもので、著者が読んだ本の内容をまとめ、感想をつけただけのもの。そして、最後はお得意の「第三者の審級」に結びつけるという、いつもパターンである。この内容で、800ページも必要ない。
読んで面白い箇所はたしかにあるのだが、それが実は別の本の内容だった、ということが何度もある。読みながら、何度がっかりしたことか。『ナショナリズムの由来』というタイトルなのだが、本書はナショナリズムのテーマと本当に関係があるのか、はなはだ疑問だ。著者には、一度「第三者の審級」というマジックワードを使わずに本を書いてもらいたいものである。