小川仁志『はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い』

小川仁志『はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い』講談社現代新書、2010年12月
政治哲学の諸理論をはじめての人にわかりやすく解説している。
タイトルから具体的なケースをきっかけにして、理論の解説をするのかと思ったが、さまざまな学者の理論をとりあげ解説するだけだった。
内容は面白いだけに、身近な問題から説き起こしてくれたらよかったのにと思う。

張競『海を越える日本文学』

「おわりに」のところを読んでいたら、三浦綾子はかつて東アジアで非常に人気があったと書いてある。ところが、日本では三浦綾子の文壇的評価が低かったという。芥川賞直木賞といった文学賞をもらっていないと。一方、同様に文学賞とは無縁の村上春樹は、メディアや批評家にもてはやされ、三浦とは異なる扱いを受けている。それはどうしてか? 著者は「村上春樹は欧米人に褒められているから」だと主張する。三浦は東アジアで人気があるとはいえ、欧米では認められていない。だから三浦の文学は「本物ではない」とわれわれ(著者を含めた日本人)は受け止めている。つまり、われわれは未だに欧米の影から一歩も抜け出せていないのだと著者は言う。
たしかに、村上春樹が欧米で評価されたことで、日本での評価もあがったのかもしれない。(調べていないのでわからないが。)また欧米の影響から抜け出せていないのも確かなことかもしれない。しかし、正直にいって三浦綾子の作品はそれほど評価できるものではないだろう。単純に作品の出来から見て、三浦は文壇的評価は得られないと思う。これは欧米の評価とは関係ない。

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』文春文庫、2008年5月
正直、ぜんぜん面白くない。
語り手の語り方に、まったく合わない。イヌに呼びかける語り方は、気持ちが悪い。そもそも、この語り手はいったい何なのか? イヌの内面に入り込んだり、20世紀の表と裏の歴史をすべて知っているかのような立ち位置といい、何様のつもりなのか。
文庫本には、「あとがき」がついているのだが、この「あとがき」の語り方が、小説の語り手と同じになっている。つまり、語り手の語りが、作者に憑依してしまっている。「冒頭の献辞は、脱稿してから書かれた。そして、わたしがこの本を捧げた人物は二〇〇七年の四月に逝った。これもまた現代史だ。/なあボリス、お前のことだよ。」(p.393)
これは、かなり気持ちが悪い。冒頭の献辞とは「ボリス・エリツィンに捧げる。/おれはあんたの秘密を知っている。」というものだ。これだけでも十分に気持ちが悪いのだが、「あとがき」の文章はその気持ち悪さをさらに倍増させる。「これって、イケテル表現だろ」という自意識が、小説の至る所から臭ってくる。もう、うんざりするし、がっかりもする。
それから、スピード感を狙ってのことだと思うが、文末表現を「る」形や「た」形の連続させ極端に単純化させているのだが、こうした小細工が、読んでいてただ不快なだけだ。
下手な小細工はやめたほうがいいと思う。変わったことをして目立とうとする高校生みたいで、これは単なる幼稚な小説としか思えない。

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』

◆野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』NHK出版、2003年9月
この手の本はいろいろ読んだので、以前読んだ類似本と内容がかぶる。良い文章を書く秘訣は、だいたいみんな同じなのだ。
本書のなかで、なるほどなと思ったのは、定型表現を遠慮無く使おうという指摘だ。この指摘は、他の類似本には見られない。普通、定型表現は避けるべきと考えがちだが、まずは文章の「型」を身につけることが上達の王道だという。あまりにも紋切り型表現を使いすぎるのは困りものだが、良い表現はストックしておいて、どんどん使っていくのは良いことだと思う。

うまい!日本語を書く12の技術 (生活人新書)

うまい!日本語を書く12の技術 (生活人新書)

石黒圭『文章は接続詞で決まる』

◆石黒圭『文章は接続詞で決まる』光文社新書、2008年9月
接続詞をうまく使うと、文章は読みやすくなる。しかし、これが難しい。どこで、どんな接続詞を使えば良い文章になるか。そもそも、接続詞を使うべきか使わないべきか。文章を書くときには、いつも悩む。
本書ではそもそも、接続詞とは何かという問題から始まり、各接続詞の用法が解説されている。面白いのは、日本語には文末にも接続詞があるという点だ。「のだ」「のではない」「と思われる」などが解説されていた。
索引も付いているので、接続詞の辞書のように使えるかもしれない。

文章は接続詞で決まる (光文社新書)

文章は接続詞で決まる (光文社新書)

白井恭弘『外国語学習の科学――第二言語習得論とは何か』

◆白井恭弘『外国語学習の科学――第二言語習得論とは何か』岩波新書、2008年9月
外国語を身につけるのは難しい。何か良い方法がないものか。そんなことをいつも考えているのだが、なかなか良い学習法が見つからない。
外国語を学ぶのも難しいが、また教えるのも難しい。学生に苦労を掛けずに外国語を身につけさせることができたら、どんなに良いことか…。
本書は、第二言語習得論の入門書として書かれている。言語学や教育学の専門知識がそれほどなくても、読み進めることができる。また、教科書的にも書かれているので、第二言語習得論では、現在、どのような研究や議論がなされているのかも把握できて、非常に役に立つ。
これを読んだからと言って、すごい学習法がわかるわけではないが、外国語の学習者にとっても、語学教師にとっても、第二言語習得論の研究成果を知ることは大切なのだ。

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

大塚英志『初心者のための「文学」』

大塚英志『初心者のための「文学」』角川文庫、2008年7月

 ぼくが先に中上ら八〇年代文学は「ガンダム」のようだ、と記したのは「ガンダム」もまた八〇年代に「サーガ」化したからです。
 中上の熊野という現実の土地の上に築きあげた「神話的世界」とは、「僕」が「想像力」で描いてきた主観的な「地図」と本質的には同じだとぼくには思えます。「子供」の時間が終わり、「現実」が世界に侵入することに耐えかねた「子供」は「嘘」とわかっていても「地図」を作らずにはおれず、その「地図」はだからこそ「現実」が侵入しないようにひたすら拡大し、しかも緻密に作られる必要があるわけです。それをアニメの世界でやれば「ガンダム」、文学でやれば中上健次村上春樹村上龍ということになります。(p.255)

かつて批評家たちは、このような中上文学を「真の文学」と称し、中上の死とともに「近代文学は終わった」と言った。それに対し、大塚は「そこで持ち上げられる「文学」は、とうとう「主観による地図」しか描けなかったし、むしろ徹底的に空想の中にとどまろうとした「文学」のように思え」(p.255)ると批判する。
最終章の「補講」では、村上春樹の『海辺のカフカ』を取り上げる。ここでは、大塚は村上春樹を評価している。『海辺のカフカ』は、「物語作者が人を殺す表現を敢えて書き続けることの意味を作者自身が考え抜いた小説」(p.318)であるからだ。象徴と具体がセットである「世界」。大塚が追い求めているものは、これである。

 そこで人は現実には人を殺さず、しかし時には象徴的に殺し、そして生々しい返り血を浴び、成長していきます。物語が作中で人を殺し続けることは象徴的にそれが行われ続ける必要があり、そして、人はあくまでも象徴的に人を殺すのだ、ということの意味を考えるためにそれらの物語はあります。だから、村上春樹もぼくやぼくと同じように人殺しの原因と名指しされた作者たちもまた人殺しの物語を書き続けていかなくてはならないのです。世界が「現実」であり同時に「象徴」であり続けるために、です。(p.318)

正直、本書はあまり面白い内容ではない。「戦時下」だの「国家」だの、いちいち大げさに論じるのがつまらない。政治的に文学を読んでいっても、気分が暗くなるだけだと思う。

初心者のための「文学」 (角川文庫)

初心者のための「文学」 (角川文庫)